発災からの日々を振り返って

NEW 住民の生命を守ること②—誰が嘘をついたか―

 令和3年7月3日午前10時28分。土石流の発生を知らせる最初の通報が消防にあった。それを受けて、10時32分に消防長に連絡がされ、40分に消防長は登庁している。そして、すぐさま市長に土石流の発生を報告した。これも10時40分のことである。
 熱海市は、土石流発生の通報を受けて、熱海市の言葉を借りれば、「即時に」災害対策本部を設置した。10時35分のことである。そして、熱海市長は発災後の記者会見で、災害対策本部を立ち上げたのは自分だと言っていた。
 何かおかしい。10時40分に発災の連絡を受けた市長が、その5分前、10時35分に災害対策本部を立ち上げることができたのだろうか。
今ここに書いてあることは全て、熱海市が既に発表しているものである。検証の中でも、また、復興基本計画の中にも書いてある。まさか、今更勘違いだったということもないだろう。しかし、矛盾している。もしも意図的に記録が操作されているのなら悪質である。そんな時間なんて大したことないじゃないかと言うかもしれない。しかし一般論として、もし実際と違うことを承知して発表しているならば、それは、ミスをごまかしたいか、事実以上に自分たちが上手くできたことをアピールしたいかのどちらかだろう。
28名(災害関連死を含む)もの方々が亡くなっているのである。そんなことが許されていいのか。なぜ、こんなに大勢の方々が亡くならなければならなかったのか、真摯に向き合い検証しなければ、次にもし災害が起きた時に、また同じようなことを繰り返してしまう。阪神大震災や東北の大震災、熊本の震災などでもそうだったように、今回の災害対応の反省を次に生かすことこそ大事なのではないか。反省から学ぶ、そのための検証ではないのか。熱海市の姿勢を問いたい。

2024年11月30日被災地の今:発災からの日々声:被災者の声

NEW 住民の生命を守ること①—市長のやるべきこと―

 消防庁から「市町村長による危機管理の要諦—初動対応を中心として」が公開されている。同じく消防庁が公開している「災害事例集」の中で、今までの座学が災害対応に役立ったと言っている熱海市長も当然読んだことがあるだろう。
 内容は、「自然災害、国民保護事案等の危機管理における初動対応に関し、市町村長が頭に刻み込んでおくべき重要事項」が記してある。そしてその中で、市町村長の責任・心構えとして6つ挙げてある。
(1) 危機管理においては、トップである市町村長が全責任を負う覚悟をもって陣頭指揮を執る。
(2) 最も重要なことは、①駆けつける、②体制をつくる、③状況を把握する、
④目標・対策について判断(意思決定)する、⑤住民に呼びかける、の5点である。
(3) 市町村長が最初に自ら判断すべき事項は、避難指示の発令と緊急消防援助隊や自衛隊の応援に係る都道府県への要求である。
(4) 災害状況が正確に把握できない場合でも、最悪の事態を想定して判断し、行動する。
(5) 緊急時に市町村長を補佐する危機管理担当幹部を確保・育成する。
(6) 訓練でできないことは本番ではできない。訓練を侮らず、市町村長自ら訓練に参加し、危機管理能力を身に付ける。
 (2)に最も重要なこととして、まず、「駆けつける」ということが最初に挙げられている。危機管理において全責任を負う市町村長が、まず駆けつけ、自分の目で見て、耳で聞き、刻一刻と変わるであろう状況を自ら確認し、瞬時に住民を守る最善の判断を下すために、当然重要なことであることは容易に想像できる。
 では、伊豆山の土石流災害において、熱海市長の行動はどうだっただろうか。
 熱海市長は、午前10時28分の住民からの通報を受けて、10時40分に市役所に居たはずの危機管理監からではなく、自宅に居て、連絡を受けて登庁した消防長から土石流の発生を知らされた。そして登庁したのが11時35分。55分後である。市長の自宅から市役所まで徒歩で10分程。わたしは、なぜすぐに駆け付けなかったのか不思議に思い、被災者への説明会で質問した。その答えは、「移動に時間がかかるから。」
ということだそうだ。市長は携帯電話を持っていないのだろうか。
 2時間近くかけて海まで流れ下った土石流で、亡くなられた27名のほとんどが、市長が自宅にいる間に亡くなっている。そのことについてどう思うか質問したところ、次の答えが返ってきた。
「何もしなかった訳ではない。自宅からちゃんと指示していた。」
 自宅に居て、担当者が理解していた状況を聞いただけの市長が、一体どれだけ状況を把握していたのだろうか。職員からの電話での報告だけで、住民の生命の安全確保について判断したのである。緊急速報メールで市内に緊急安全確保の発令が知らされたのは11時5分。最初の通報があってから37分後である。そして27名もの尊い命が失われた。
(参考)総務省消防庁「市町村長による危機管理の要諦—初動対応を中心として―」

2024年11月17日被災地の今:発災からの日々

行政の決定≠住民の選択—小規模住宅地区等改良事業制度—

 令和4年5月27日と28日に伊豆山地区復興まちづくり・道路計画説明会が行われた。熱海市のホームページで公開されているこの時の会議録によれば、熱海市はこの時初めて、伊豆山の復興まちづくり事業は「小規模住宅地区等改良事業制度」を活用して、今後の復興を進めていくと決めたと被災者と住民に説明した。
 まず初めに、全国各地で行われた実績のあるまちづくり事業4つについて説明があった。1つ目は災害復旧事業、2つ目が防災集団移転事業、3つ目が土地区画整理事業、そして4つ目が小規模住宅地区等改良事業制度である。これらの比較の表がスクリーンに映し出され、この4つについて口頭で説明がされた。
 道路計画では、何枚か説明の内容が資料として配布されたが、何故かこの事業の資料は、復興事例の紹介として、小規模住宅地区等改良事業制度で復興まちづくり事業を行った福岡市玄界島の完成後の絵、ただ1枚だった。住宅に大きな被害を受けた被災者にとっては、とても大事な事業であったのに、4つの事業の比較の表も、その後の小規模住宅地区等改良事業制度の説明も、資料として配られることはなかった。
 何故だろう。4つの事業の説明も、その比較も、制度の内容も、口頭で1度説明されたぐらいでは理解できない。わたしたちは専門家ではない。資料をもらい、もっと詳しく説明してもらわなければ理解するのは難しい。
 一般的には復興まちづくり事業は、約70%の合意があって初めて行うことができる。そして、完了時には、100%とならなければならない。
 では、熱海市はどうだっただろうか。熱海市から聞かれたのは、この制度でいいですかということではなく、この制度に決めましたが参加しますかということだった。そして、この小規模住宅地区等改良事業制度の詳しい説明会の開催を何度も要望したが、とうとうそれが開かれることはなかった。
 結果として、住宅に大きな被害を受けた被災者の多くは、元の場所に戻れないかもしれないことと、買い戻す金額が見当もつかないことを恐れて、この制度への参加を見送った。参加希望の人もいたが少数であったため、結局熱海市は、この制度の活用を諦めざるを得なかった。最初にもっと時間をかけて丁寧に説明し、被災者の不安に答えていたら、結果は変わっていたかもしれない。

※配布資料…ホームページ 玄界島小規模住改

2024年08月25日被災地の今:発災からの日々

国民健康保険料(税)の減額、免除

 ここに1通の通知がある。昭和42年に厚生省保険局長から出された「災害による国民健康保険料(税)の減免に伴う特別調整交付金の算定基準について」である。
 これはどうゆうことかと言えば、災害被災者に国民健康保険料の減額や免除をする時は、国が交付金を出しているので全国一律の基準ですよと、もっともなことだと思う。
 そこで疑問に思うのは、損害保険で保険金が支払われた場合である。いろいろな条件があるが、災害により損害を受けた資産に対する評価額に対し、支払われた保険金額が上回ると減免が受けることができない。
 まず、損害保険は損害があったことに対し支払われるものであり、利益を生むものでない。そして家屋の評価額は、建築費に比べ低額になっている(評価額を上げろということではない)。また地震保険は、火災保険の半額が加入金額となる。以上のことから特別の手立てをしていただけることを期待したい。
損害保険からの支払いに対する対応は、所得税(旧大蔵省)、住民税(旧自治省)、国民健康保険(旧厚生省)の考えの違いがあるのかもしれない。
 国民健康保険料は、平等割(世帯ごと)、均等割(加入者の数)、加入者の所得そして固定資産により計算され、自治体により固定資産割がないところもある。損害保険が支払われたことが、減免されない理由であるとすれば、固定資産割の名残かも知れない。
 いずれにしても、損害保険金が入ったからといって、減免ができないようなことは見直してもらいたい。ちなみに、私の自宅は全壊で、風水害特約に加入していたが満額は出なかった。それでも評価額より受け取った保険金が多く、「儲かりましたね」という心無い市役所の職員の一言が、とても悲しかった。その金額では、もう同じ家は建たない。

2024年08月25日被災地の今:発災からの日々

避難所とコロナ—分断された被災者—

 

 土石流発災時は、コロナ禍の真っ只中であった。また、暑いさなかで、高齢者も多いことから、二次避難所は市役所近くのホテルだった。体育館という大きな空間に大人数が集まるリスク、熱中症のリスクを考えれば、非常に有難い決断であった。熱海市としても、お金はかかるが、市役所近くの1か所に集約できることは管理し易かったのではないだろうか。
 1家族1部屋を割り当ててもらい、プライバシーは守られた。体育館などの避難所とは比べものにならないくらい快適に過ごさせてもらい、その点に関してはとても感謝している。しかし、個人情報の壁もあり、隣の部屋に誰がいるのかすらわからなかった。わがままと言われるかもしれない。しかし、この時のことが後々まで尾を引き、避難所を出てからも、近所の人が今どこにいてこれからどうするつもりなのか、全くわからない状態になってしまった。
 今までのコミュニティーが好きで、みんなが帰るなら帰りたいとか、あの人が帰るなら帰りたいと思うのはごく普通のこと。しかし、みんなばらばらになり、携帯電話の番号を知っている人としか連絡をとることはできなくなっていた。どうしたものかと悩んでいるうちに時間が経ち、帰るのを諦めてしまった人もいたようだ。
 令和6年7月現在で帰還したのは132世帯の内わずか22世帯。コミュニティーの再生はできるのだろうか。

2024年07月03日被災地の今:発災からの日々

お客さんでいること—避難所運営における教訓—

 

 2021年7月3日の発災から4つの避難所でおよそ3カ月過ごした。2日目に移ったホテルでは、500名以上の住民が17日間避難していた。そこでは何日か経つと、お昼のパンを避難している若者たちが配るのを手伝っていた。避難所の運営に避難している人たちが少しでも関わることは、とても良いことだと思った。
 1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災では大きな被害があり、非常に多くの教訓を後世に残した。わたしがかつて務めていた職場でも、当時様々な教訓が語られ防災の糧となった。その中に、「避難者をお客さんにしてはいけない」というものがあった。避難者自身が運営の一端を担い、みんなが避難所での日々のことを自分事として考えることで、避難所の運営も上手くいくというものである。おそらく東北の震災の時や、熊本の震災の時もその教訓が生かされたはずである。
 熱海市ではどうだっただろうか。最初こそ少しは関わることができていたが、次の避難所に移った時には、それはすっかり無くなっていた。熱海市の職員には何度か避難者でできることはやりたいと申し出ていたが、それが聞き届けられることはなかった。そしてわたしたち避難者はお客さんになってしまった。
 結果として、熱海市の考えていることも良くわからなければ、避難者の声もなかなか行政には届かなかった。なぜ、このようなことになってしまったのだろう。過去の教訓を生かすならば、熱海市は避難者の申し出を受け入れるべきではなかったのか。あの時、それが行われていたなら、「今」は少し変わっていたかもしれない。そう思うと非常に残念である。

2024年07月03日被災地の今:発災からの日々

ふさがれたフェンス—避難経路—

 

 土石流が押し寄せた時、逃げ道がなく隣家の屋根伝いに逃げた人や、袋小路に追い詰められて、ただひたすら助けを待つことしかできなかった人たちもいた。フェンスの金網を破り、消防の人に崖の上からはしごを下ろしてもらって引っ張り上げてもらったらしい。
 土石流のあった岸谷地区は、急峻な地形で崖も多く、袋小路になっているところも多い。大変な思いをしたわたしたちだからこそ、次に災害が起こった時にはちゃんと逃げられるように、普段から避難経路を確保しておくことが大切であると思う。
 既に22世帯が元警戒区域内に帰還している。しかし、その人たちの避難経路は必ずしも確保されているとは言えない。今日明日にも、南海トラフ地震が起きるかもしれないという状況であるにもかかわらず、避難路計画は止まったままである。
 発災時に破られたフェンスは静岡県の所有で、2年程後にそのまま塞がれた。次の災害を考えるのならば、フェンスはどちらからでも開く扉にするべきであった。新しい道を作ることだけが避難経路を確保することではないと思う。フェンスを扉にしたり、隣家同士で庭先を通れるようにしたり、小さな工夫をすることで救われる命もあるかもしれない。
 熱海市は令和5年6月に避難経路アンケートを行っていて、当日の避難の様子を把握している。災害は待ってくれないのだから、すぐにでも対策をするべきではないだろうか。

2024年07月03日被災地の今:発災からの日々