被災者の声

2024年11月30日
NEW 住民の生命を守ること②—誰が嘘をついたか―
2024年11月30日
NEW 住民のための町—知らされなかった計画—
2024年10月13日
天災と人災 <jiji>
2024年10月06日
記者さんへ<SATO>
2024年10月06日
キャッシュカードの行方—避難者の憂鬱—<みかん>
2024年08月25日
99日目の夢語り<みかん>
2024年08月25日
国民健康保険はずるいのか―窓口の一部負担金の免除—<Kankitsu>
2024年08月25日
土石流に被災して<Kankitsu>
2024年08月18日
地元民にあらず<SATO>
2024年08月18日
遺族<SATO>
2024年08月10日
公費解体<にーちゃん>
2024年08月10日
感謝<SATO>
2024年08月03日
支え合い<SATO>
2024年08月03日
公費解体と残された荷物<みかん>
2024年07月11日
7月10日公開弁論を傍聴して<イエロー>
2024年07月06日
今伝えたい事<イエロー>
2024年05月11日
ドーナツの穴<みかん>
2024年04月01日
裁判の先にあるもの<SATO>
2024年03月03日
帰還への不安<Sakura>
2024年03月01日
ショックドクトリン<きりん>
2024年01月30日
残された者として<Kankitsu>
2024年01月25日
根無し草<みかん>
2024年01月22日
土砂災害から2年<R.N.>
2024年01月15日
進まぬ復興<みかん>
2024年01月13日
埋もれゆく被災地<Yurari>

投稿記事一覧

NEW 住民の生命を守ること②—誰が嘘をついたか―

 令和3年7月3日午前10時28分。土石流の発生を知らせる最初の通報が消防にあった。それを受けて、10時32分に消防長に連絡がされ、40分に消防長は登庁している。そして、すぐさま市長に土石流の発生を報告した。これも10時40分のことである。
 熱海市は、土石流発生の通報を受けて、熱海市の言葉を借りれば、「即時に」災害対策本部を設置した。10時35分のことである。そして、熱海市長は発災後の記者会見で、災害対策本部を立ち上げたのは自分だと言っていた。
 何かおかしい。10時40分に発災の連絡を受けた市長が、その5分前、10時35分に災害対策本部を立ち上げることができたのだろうか。
今ここに書いてあることは全て、熱海市が既に発表しているものである。検証の中でも、また、復興基本計画の中にも書いてある。まさか、今更勘違いだったということもないだろう。しかし、矛盾している。もしも意図的に記録が操作されているのなら悪質である。そんな時間なんて大したことないじゃないかと言うかもしれない。しかし一般論として、もし実際と違うことを承知して発表しているならば、それは、ミスをごまかしたいか、事実以上に自分たちが上手くできたことをアピールしたいかのどちらかだろう。
28名(災害関連死を含む)もの方々が亡くなっているのである。そんなことが許されていいのか。なぜ、こんなに大勢の方々が亡くならなければならなかったのか、真摯に向き合い検証しなければ、次にもし災害が起きた時に、また同じようなことを繰り返してしまう。阪神大震災や東北の大震災、熊本の震災などでもそうだったように、今回の災害対応の反省を次に生かすことこそ大事なのではないか。反省から学ぶ、そのための検証ではないのか。熱海市の姿勢を問いたい。

2024年11月30日被災地の今:発災からの日々声:被災者の声

NEW 住民のための町—知らされなかった計画—

 令和6年11月15日、復旧復興事業についての岸谷地区の町内会別説明会が行われた。新聞記事によれば、意見交換は非公開だったが終了後に町内会長が、「市道と宅地にできる高低差をもっと減らしてほしいと要望した。仮開通した岸谷2号線もかさ上げせず、今の高さにとどめてほしい。」と話したそうだ。
これまで町内会が、川と道路の計画の変更を要望することはなかった。では、なぜ3年以上たった今になって計画の変更を求めるのか。答えは簡単だ。計画の全体像を知らされていなかったからである。今年の1月に丁張で、道路が高い所で3m20㎝(当時)もかさ上げされることを初めて知り、被災者も住民もとても驚き困惑した。それまでずっと、計画は平面図で説明されており、高低差についての説明はなかったからである。
 丁張の後、あまりの高低差に、住民から何とかしてほしいという声が出始めた。その後、以前「岸谷2号線仮開通」の中で書いたように、道路の高さは少し下げられたが、まだ最も高い所で2mもかさ上げされる。少しは下がったが、それでもまだ、これでは困るということで、今回の町内会長の話になるのだと思う。
 そもそも、復興計画の全容が住民に知らされずに進められるというのは、一体どういうことだろうか。岸谷町内会はこれまで、毎月のように県と市と会合を持っていた。熱海市によれば内容は非公開だということなので、何を話し合っていたのか窺い知ることはできないが、高低差については説明していなかったということだろう。
しかし、道路と宅地との高低差はとても重要なことだと思う。道路より宅地が低くなれば、当然、大きなデメリットがある。それを住民に何も知らせず進めるなんて、あり得ないことではないのか。いや、もしかしたら、図面に書いてあったのかもしれない。しかし、専門家ではない住民には読み取ることなどできないことは、誰もがわかることだろう。説明がなければ合意もできない。そんなことは当たり前のことではないか。
 熱海市の当初の計画である小規模住宅地区等改良事業制度による面的整備から、個々の宅地の造成費の9割補助の制度による整備に変更した時点で、道路の計画も見直すべきではなかったのか。現実の地形の傾斜に抗って、見栄えのいい道路を造ろうとするのは無理があったのではないかと思ってしまう。
 わざわざ巨額の工事費を投じて、住民が暮らしにくくなるものを造るなんていかがなものだろうか。住民はそれを望んでいない。だからこそ、町内会長も計画の変更を求めるのではないか。それなのに、なぜ敢えて住民が望まないものを造ろうとするのか。
 静岡県と熱海市には、ぜひ、実際にそこに住む人たちの要望を聞いて、それに寄り添って欲しい。そして、住民のための町を作って欲しい。それが、被災者を含め災害で町を滅茶苦茶にされた住民の願いだと思う。
(参考)令和6年11月18日付熱海新聞記事「復旧復興事業 市と県 岸谷町内会 市道整備で意見交換 『宅地との高低差減らして』

2024年11月30日被災地の今:川と道路の現状声:被災者の声

天災と人災 <jiji>

伊豆山で災害が起きてから3年。
近年の気候変動による大雨や、地震などを原因とした災害が頻発している。
その全てが自然災害と言えるだろうか?
きっかけは自然現象かもしれない、しかし、軟弱な土地にしたのは誰だろうか?
山間部の多い日本では、新たに開発した土地が多くある。行政や工事に関わった人で、もし危険を認識している人がいるならば、取り返しがつかなくなる前に声をあげて欲しい。被害を受けるのはいつも何も知らされない住民です。

2024年10月13日声:被災者の声

記者さんへ<SATO>

 この秋の異動で、発災時から熱海を担当されていた記者さんはおられなくなったようです。署名記事ですからね、直接お話したことなくても、皆さんの記事はお名前と一緒に記憶しております。私の人生の一部を発信された、そういうご縁のあった方達です。 
 3年間、月命日に三脚をかついで伊豆山を登ってこられた方は広島に転勤されました。良い記事ばかりでした。被災者の心に寄り添う叙情的な表現を、重要な課題に上手につなげておられました。ずっと伊豆山に関わってこられた蓄積は惜しく残念ですし、最後まで伴走して、判決のニュースも書いていただけるとおもっていました。これからも健康でご活躍をされることを願っています。
 取材を受けてマスコミへの認識がかわりました。記者さんの多くは若く、賢く純粋で熱い。本気で世の中を良くしようと頑張っておられる。 「被告の発言」が原告に忖度しないで発信されたニュースが2つありました。その中の短いフレーズから裁判進行の実態が推測され、疑義を持つ私の背中を押しました。人生を変えたきっかけの一つです。原告にとっては一見デメリットな事実でも、公平な発信は大切なのではないでしょうか。 「私たちの味方になってください」これは正義ではないので、私は言いません。これからも公正中立に、何者にも忖度せず、事実を深く振り下げてください。

2024年10月06日声:被災者の声

キャッシュカードの行方—避難者の憂鬱—<みかん>

 被災後、既に取引のある金融機関でキャッシュカードを作ることになった。運転免許証で本人確認できるので、手続きとしては簡単だった。しかし困ったことに、キャッシュカードは転送されない。わたしたち家族はまだ避難生活を送っている。自宅は全壊してしまい、まだ戻れない。金融機関に相談すると、住民票を移したらどうかと言う。しかし、それでは、熱海市からの支援は受けられなくなる。
金融機関の本部の判断で、罹災証明の摘要欄に避難先の住所を載せてもらえれば、それで確認が取れたということで、避難先に送ってくれることになった。つまり、それ以外の方法ではキャッシュカードは作れないという判断だった。
しかし、金融機関から熱海市に連絡したところ、熱海市はみなし仮説住宅として住宅の補助をしてくれているので、今居る住所を把握しているはずなのに「それはできない」ということだった。結果的にキャッシュカードは作れなかった。
以前、被災後に息子が別の金融機関でキャッシュカードを作った。その金融機関は一度旧住所に送り、返送されたことを確認できてから、窓口で本人確認の上、渡してくれた。おかげで息子は無事キャッシュカードを手にすることができた。
今回その事も伝えたが、その金融機関では駄目だった。その担当者が言うには、
「わたしの知る限り、大体どこの市町村も罹災証明に、今居る住所を載せてくれた。」
ということだ。被災者ファーストで考えれば、当然そういう対応になるのだと思う。担当者もかなり粘ってくれたようだが、結局熱海市は、頑なに「できない」を繰り返したらしい。
 帰り際、わたしは担当者に言った。
「被災して帰りたくても帰れない。再発行できなければ困る人だっているでしょう。確認は大事ですが、もっと臨機応変にできないのですか。おたくも、熱海市も。」
 杓子定規な対応で困るのは、被災者である。被災して、ただでさえいろいろな困りごとだらけなのに、更に追い打ちをかけるのか。特にそれが一番分かっているはずの熱海市の対応は、傷口に塩を塗るような対応ではないかと思えた。

2024年10月06日声:被災者の声

99日目の夢語り<みかん>

 令和3年10月9日、翌日に「土石流災害発生100日犠牲者追悼式」を控えたこの日、逢初川復旧の方向性に関する説明会が行われた。みなし仮設住宅であるアパートや市営・県営住宅に住み始めてから初めての説明会である。これから先のことを思い、大きな不安を抱えながら説明会に臨んだ。
 国や県から、新設される堰堤のこと、落ち残った土砂のこと、第2の盛り土のことなど説明があった後、熱海市長から今後の復旧・復興の基本的な考え方について話があった。
 戻りたい人が必ず帰れるようにと言いながら、戻らない人が出ることによって、新たな土地が生まれる可能性があるとし、それを伊豆山全体の発展に使いたい、新しいまちづくりの契機になると市長は言った。伊豆山の歴史を今一度掘り起こして再定義するタイミングだと。そして、それらを生かして賑わいの拠点を、ミニ門前町的なものが何とかできないかと考えていると語った。また、上流部の堰堤の工事用の道路をハイキングコースとして使うことを国に提案しているということ、駐車場を整備して交流人口を増やし、それと同時にワーケーションを活用した移住促進事業、チャレンジショップやチャレンジオフィスにより定住人口の増加と地域産業の活性化にもつなげたいということである。
 「これはわたしの夢です。」
議事録からは削除されていたが、確かに市長はそう言った。そして伊豆山の新たな町づくりの契機そのものだ、今日は復旧復興に向けたキックオフだと思っていると、嬉々として自身の思いを語った。
 何か大事なものを置き去りにしていないか。その日は、災害発生から99日しか経っていなかった。非常に残念なことだが、大切な家族を亡くした遺族の方々の気持ち、家や大事なものの多くを一瞬にして奪われた被災者の気持ちなど微塵も考えていない市長の発言だった。
 その後の質問では、遺族、被災者の怒りが爆発した。当たり前である。心に傷を負い、今日、明日のことが不安で仕方のない人たちに、市長は災害を契機にした楽しい夢を聞かせたのである。
 その後の記者会見で、市長は「今は夢を語っている時ではない。」と言っていた。気が付くのが遅すぎたのではないか。
今でも、「あの市長が夢を語った時のことは忘れない」と言っている被災者は多い。災害で深く傷ついた人たちをさらに傷つけた、あの時のことを、わたしも決して忘れることはないだろう。
(参考)熱海市ホームページ「逢初川の復旧の方向性に関する説明会」議事録

2024年08月25日声:被災者の声

国民健康保険はずるいのか―窓口の一部負担金の免除—<Kankitsu>

 国民健康保険に加入している被災者は、医療機関での一部負担金が、7月3日から12月31日までのおよそ5カ月間免除された。被災し先の見えない中で、少しでも支出を減らしたいと思っていた私にとっては、とてもありがたいことだった。そして、保険料の減免の制度もある。(私は該当しなかったが。)
 そのことを国民健康保険以外の人に話したところ、「うちは、そんなことはない。ずるい。」と言われてしまった。ほかの健康保険では、災害にあったときに、そのような制度がないのか不思議に思った。
 もしないのなら、窓口で支払った分の領収書と罹災証明、保険証の写し(マイナンバーカードの写し)を、加入している社会保険事務所や健康保険組合に送り、還付するような制度を作り、あるのならば、それを被災者に知らせなければならないと思う。
 保険料は収入が減らなければ変わらない、ではなく、実態に即した見直しをして欲しい。と、簡単に言っているが、事業所の経理や税金が関係してくるので非常に難しいとは思っている。
 国民健康保険の加入者が優遇されているのなら、それを最低限のラインとして、国民保険以外の人も同じように扱われるようにしていただきたい。

2024年08月25日声:被災者の声

土石流に被災して<Kankitsu>

 被災した時に持ち出したリックの中には、常用している薬(処方された薬)を入れることはできなかった。そして1日や2日服用をやめても、直ちに命に係わることはないと勝手に判断していた。
 2次避難所であるホテルに入ると直ぐに、薬剤師会、医師会の方から薬や体調(コロナの流行している期間だった)のことで尋ねられ、常用している処方薬があることを伝えた。するとその日のうちに、確か1週間分だったと思うが薬が届き、その薬がある間に医療機関に行き診察を受ければと、随分と気持ちが楽になった。湯河原への通院の際、電車で通る数秒の間に、伊豆山がどのようになっているのか食い入るように見たことを覚えている。
 また歯科医師会の方には、亡くなられた方を歯形などで身元の確認をしていただいた。改めて医療関係者、ご協力いただいた方々に「ありがとうございました。」と申し上げる。狭い地域の災害であったが、とても手厚くして頂いた。そしてこれは、普段から非常時を想定した訓練をされている結果だと思った。
 令和6年8月8日、南海トラフ地震臨時情報が出た。食料・飲料水、薬、どこにどう避難するのか、家族との連絡はどうするのか、地震だけでなく想定し得るあらゆる事態を考え、生きぬくための準備を進める機会としたい。

2024年08月25日声:被災者の声

地元民にあらず<SATO>

発災後に熱海市のメールマガジンに登録
深夜に警報が鳴って、避難指示も出て
目が覚めて、ああ、雨が多くて通行止めなんだな
熱海の人もこれを聞いている
様子を想像して、むしろ落ち着いた
発災後の原風景の一つ

伊豆山の人はどういう気持ちなんだろう
何が起きたのか理解したいと思いました

地元ではいろんな情報があるのだろうけれど
わたしの知る方法は限られていて
地元紙をネット契約して
市の広報の情報を読んで
静岡県の検証委員会の中間報告書を読んで
それだけでは人の気持ちはわからない

大きな砂防堰堤を作るらしいけれど
残った土砂を全部取り除いて、元の山にもどれば
川を少し直すだけで大丈夫じゃないかと
遠くから考えた
森と腐葉土で安定した良い山だった
子供のころ、台風で大水が出ても水は澄んでいた
でも、地元の人は、大きい堰堤ができたら安心できるし
広い道路が必要なのかもしれない
今現在に住んでいる人が望んでいるなら外から余計なことは言えない

「地元に住んでいない人にはわからない」
「生活再建のないあなたとは違って私たちはたいへん」
「私たちの考えと違う」
そう言われると話しが止まり、溝が生まれる
伊豆山は閉じられたカゴのよう
でも、わかった
なあんだ、地元の被災者でさえも、一人一人みんな想いが違う
主語を小さくしませんか
わたしたちでなく、わたしの考えですよね
そして、お互いの考えを共有することから始めませんか
その一人がたまたま地元の人ではなかっただけですよ

2024年08月18日声:被災者の声

遺族<SATO>

私は遺族の代表ではないし
遺族でもそれぞれの想いは違う
「犠牲者のために○○をするべき」「遺族としてはこう考える」
そう言うと、聞き手はマウントされて、黙ってしまうから
私はできるだけ言わないようにしている
周囲も「遺族」を決めつけないでほしい
「遺族なのに裁判に参加しない」「肉親を殺されても黙っている」
これは言葉の暴力

一瞬で流された人は無念と感じる間もなかった

せっかく災害から逃れたのに、避難中に倒れて
最後に病院の天井を見ながらどんな気持ちだったろう
真相究明より、ただ「生きたい」
そう思ったのではないか
声を上げる人は時間と労力とお金をたくさん使って、心身疲れ果てるから
「そんなことより家族を大事にして、穏やかに暮らしなさい」
今の自分をみたら、そう言うかもしれない
自分が知りたいから頑張ったんだよ

家を流された人、伴侶を亡くした方、
母を亡くした人はどんなかと思いやる
わたしにも子供がいるから
お子さんを亡くした痛みは想像もできない
でもね、たとえ身寄りのない老人だったとしても
その人も誰かの子供だった
生まれた時に、親は幸せな人生を願ったはずなのに
こんな死に方をするなんて

人は必ず死ぬから、災害は他人事でした
記者さんは故人の思い出を語ってくださいというけれど、お断りしていた
同情では人は動かない
社会を変えられるのは今を生きている人だから
ロジカルに伝えたい
遺族になる前の、3年前のわたしに戻り
無関心な自分を説得し、動かすにはどうすればいいのか考える

2024年08月18日声:被災者の声

公費解体<にーちゃん>

決心
土石流でやられた家をどうしようか、深く考えたよ
先祖代々の土地で、大事な家だし、思い出や家財は残っている
ちゃんと残って立っているし、
土石流の記憶として残したいし
ここが更地になったら、用地収用されてしまうかもしれない
河川と道路の計画は不自然で、偏っていて、意図的だ
こんなのが完成したら、伊豆山は別の町になってしまうと感じたよ
熱海市が、復旧・復興には後ろ向きなのに、強く公費解体を勧めてくるのも気にいらない
決めたんだ、土地といろんなものを守るために、この家をこのまま残すって、解体はしない、決心した
そして、伊豆山にもどるんだ

苦しみ
警戒区域に指定され、立ち入りできない2年2ヶ月の間、何度か泥棒が入った
ひどかったよ、めちゃめちゃに荒らされて、そのたびに片付ける
それに、人が入れない家は、どんどん傷んで朽ちていくんだ
家がこんな速さでダメになっていくなんて!
心を削られたよ
重く溜まって、伊豆山のことを考えることがキツくなって、今は湯河原だけど、伊豆山に近づくと、心が平静でいられないんだ
闇に落ちてしまったような苦しさだよ

後悔
思ったよ、同じ目に遭うことがあれば、
発災後に戻れるなら、家は解体する、
こんな苦しみを経験するなんて
大事なものが滅びていくのをみるくらいなら、
自分で処分する

2024年08月10日声:被災者の声

感謝<SATO>

この三年、忘れたいことばかり
でもね、忘れちゃいけないこともたくさんありました
救助2023年7月
土石流に道をふさがれて袋小路で救助を待っていた
どんなに怖かっただろう、電話の声は震えていた
11mの擁壁を登って救助されました
「消防の人は上手だな、ロープでうまく上げてくれたんだよ」
父はそう申しておりましたよ、その言葉にもう一度救われました
捜索 2021年7月
信じられなくて、伊豆山を見に戻る
澄み切って青く緑は濃く、きれいな空と山は変わらないのに!
下界は泥でおおわれ その中には大切な人たちが閉じ込められている
強い日差しがカラフルな作業着に濃い影をつけていた、あの光景
消防・警察・自衛隊・関係者の皆さんの懸命な姿が目に焼き付いています
市役所の職員 2021年8月
救急搬送の知らせで駅に走りましたが、目の前で最終電車が出ていきました
緊急手術の父と避難所の母に、保健婦さんたちは徹夜で付き添ってくださいました
守衛さんがHUBになり、朝まで丁寧に正確に病院の様子を伝言してくださいました 
どれだけ頼りに感じたことか
ボランティアさん 2021年9月
「警戒区域の家には父に最後に着せたい着物があるのだけれど、、」
「僕たちが付き添うから取りにいきましょうよ、監視員さんに頼んでみるから」
今どうしておられるのでしょうか、伊豆山を覚えていますか
弁護士 2023年4月
法律は難しくて、弁護士事務所に教えを乞いました 
言葉に無駄なく簡潔明快に行政訴訟と集団訴訟の疑問を解いてくださいました
災害関連死の法的疑問は「存じませんでした」と言いながら一緒に調べてくださいました
最後に言われました「この事務所でも、熱海の被害者の力になりたい手を上げたいという若手がおりました、盛り土は新しい問題で若い人が一生懸命勉強して切り開き成長するのにふさわしいのです、我々ベテランが支えて、、、とも考えましたが、こちらから申し出ることを倫理的にためらいました」「勝ってください」
2時間の法律相談で迷いはなくなり、自分の役割を知りました
余談:その若手弁護士さんに「TRUTH」を送りました

誠実な人たちとの出会いに感謝です 皆様に幸いあれ

2024年08月10日声:被災者の声

支え合い<SATO>

老老介護の両親、父は母を献身的に世話していた
何年か前、父は足が痺れて急に入院した
自宅に母が一人残された
わたしにはなにも知らせがなくて
数日たってから、ケアマネさんの知らせでかけつけると
ご近所の方、地元の父母のご友人たちが泊まりがけで
当番で母の面倒をみてくださっていた
病院へ面会に行くのにも車を出してくれて
なんてあったかいんだろうって
伊豆山はそういうところだった

熱海が嫌いで十八で出て行ったのだけれど
ここで役に立ちたいと思った

その時車を出して下さった方は、ここ数年で運転できなくなっている
八十、九十代を、七十代の方がささえていた
その人たちが八十、九十になったら、次は自分が支えたい
自然にそう思えました
熱海までの運転もがんばります

帰りたいお年寄りは一人でも戻ってほしい
心から願います

2024年08月03日声:被災者の声

公費解体と残された荷物<みかん>

 土石流により破壊され半壊以上と判定された家屋は、行政により公費で解体することができる。ただし、電気・ガス等の停止手続きや、ごみの撤去が完了していない場合、解体・撤去に着手できない。その旨、熱海市のホームページにも書いてある。
 わたしの家は全壊だった。そして公費解体の申請をした。市の関係者からは、家の中の土砂と、家を振った時に転がる物は全て自分で出すようにと言われた。
 我が家には別棟があり、そこの土砂はボランティア延べ1,000人位の方々に出していただいた。大変な思いをして搬出してくれる姿を見て、もう一棟お願いしますとはとても言えなかった。とは言え、土砂も家具もごみも外に出さなければならない。わたしたち家族は避難所から自宅に通って土砂やごみを外に出した。警戒区域内であるため、市役所に中に入りたいと申請を出すたびに、「1日でできないですか」とか「またですか」とか言われた。
 全壊と言っても家の中には、泥に埋まったり、泥まみれになった物が数多くあった。何より家の中は泥だらけだった。
 異様な臭いを放つ泥の中にいると、その臭いと現実におかしくなってしまいそうだった。それでもやらなければならない。何か月もかけ、全てが終わった時、これで解放されたと思った。
 後から聞いた話だと、結構泥もそのまま、荷物もそのままの人もいたらしい。
あの、市役所からはまだやるのかと言われながら、泥に苛まれた日々は一体何だったんだろうかと思う。
 今、能登の人達の家が解体されるのをニュースで見ていると、あの頃に引き戻される時があり、せつない思いが甦ってくる。

2024年08月03日声:被災者の声

7月10日公開弁論を傍聴して<イエロー>

今日の裁判の感想は、後発弁護団の話しだけで終わってしまった。説明が分かりやすく、なぜ、土石流が、起きたのかという説明を資料にそって詳しく説明してくれた。
3年経つが、そこまで原因についての説明を聞いた事がない。今日の裁判が新たなスタートをきってくれたのは確かだと思う。ここまで、調べてくれた、弁護士さん、その他資料を提供してくれた方々に感謝します。私達、被災者は、そのひとつの光によって、日々の生活に少しでも、明るい気持ちになれるのだと思います。
早く、はっきりとした原因究明と、被告の方に責任をとってもらうことを、願うだけです。

2024年07月11日声:被災者の声

今伝えたい事<イエロー>

被災してから3年経ちましたが、今もなお私は実家に帰る事が出来ていません。
3年間経っても帰れないのはどうしてですか?私が聞きたいくらいです。
3年間色んな事がありました。今迄に無かった苦しみや、葛藤がありました。職場から家が近くにあって見えるのになぜ違う所に帰るのだろうと歩きながら泣いて帰った事も何度もありました。
だからこそ、気がついた事は、あたりまえの每日はないという事です。
私は今年1月、東北の被災地に行ってきました。被災した小学校に貼ってあったある言葉に目が止まりました。その言葉が、あたりまえの毎日はないという言葉です。私も被災したからこそ、その言葉が、凄く実感できたのだと思いました。
私がここまで、これたのは、色んな人の支えがあったからだと思います。家族や友達、そして被災してから出会った人もいます。私のまわりにいる人達に伝えます。
ありがとう。

2024年07月06日声:被災者の声

ドーナツの穴<みかん>

 私は今、ドーナツの穴の中にいると感じる。周りを私たちの意思と関係なく決められたもの(こと)にぐるりと囲まれている。私たちはその中にあって、その一部ではない。
 伊豆山は、生まれ育った町、長く住み多くの思い出のある町、第二の故郷であったり、被災した住民にとってそれぞれの思いがある。全ての人に於いてとまでは言わないが、それぞれが伊豆山という町への愛着があり、伊豆山で過ごした穏やかな日々を愛おしく思っている。
 私たちが帰りたい伊豆山は、ただ新しくてきれいな町ではない。災害以前の伊豆山とかけ離れた町は望んでいない。しかし現実的には、帰りたい住民の思いを、熱海市は見て見ぬふりをしている。
私たちは復興の当事者でありたいと思っている。ただそれだけのことなのに、それがそんなにいけないことなのか。なぜ行政の都合で決められた計画を素直に理解して、自分の土地を差し出さなければならないのか。熱海市は被災した住民の思いも聞かず、納得のいく説明もせずに、ただとってつけたような理由ばかり並べ立てている。それなのに、復興の遅れは地権者が理解しないからだと言い切る熱海市長には不信感しかなく、地域の分断を煽っているのは、まさに熱海市長に他ならないと強く感じている。

2024年05月11日声:被災者の声

裁判の先にあるもの<SATO>

裁判で賠償を勝ち取る権利があるなら、

平穏な生活を優先して裁判をしない権利もある、

裁判で勝っても取り戻せないものはたくさんある

この裁判で望むこと
すべての被災者の救済につなげたい
そのためには勝ちたい
勝って賠償金を得る
裁判に参加していない被災者が羨むくらい、
行政の過失が認められたのなら
すべての被災者にたいして責任があるのは当然
不公平だという声があがり
特別立法や条例を整備し
すべての被災者が救済されるべき

 

2024年04月01日声:被災者の声

帰還への不安<Sakura>

 逢初川上流に砂防堤が完成し、行政からは「安全になったから帰還を」と言われていますが、果たして本当に安全なのか?
 あの様な大規模土石流は無いとしても、近年の異常気象、特に線状降水帯と言われる想定外の大雨に見舞われる可能性がある以上、源頭部の放置された宅地造成地の表流水が逢初川に流出し、未だ取り残されている盛土も安心とは云えない状況で、洪水が発生するのではないか?との不安はぬぐい去れません。
 今後大雨注意報が出るたびに心配しなくても良いように、安心して暮らせるように、全て撤去してほしい。造成地からの表層水を受け止めるに足る排水設備を作ってほしいと行政に切に要望致します。
二度とこのような悲しく苦しむ遺族、被害者を出さないで下さい。
2024年03月03日声:被災者の声

ショックドクトリン<きりん>

あなたはショックドクトリンという言葉をご存知だろうか
ある社会(町・村)が壊滅的なことが発生した直後の人々がショック状態におちいり、考えることが出来ないまま抵抗力を失っている時、この様な状態を好期ととらえて、巧妙な方法で利用制作する手段のことである
被災地を見ながら利益を生じる政府
復旧しないままの市と町
民間で作ったものの復興が民間に委ねられし公共のものをビジネスに変化していくこと

それなら、ショックドクトリンから生きる方法とは
・政府・市の口約束をうのみにしない
・再建(復興)は自分たちの手で行う
・自力でなんでも、有効に使う
・先に進むにしても、もう一回ゆっくり考えて選択肢があるかどうか考える

上記のことを考え、2年以上たっても自分の周りは何も復旧していない
被災者の方と話さず、自分達の考えを進めて最後に復旧が進まないのは土地を売ってくれないからと他人のせいにするようなことがあってはならないことだとおもう
2年以上時間を無駄にした市・県に対し怒りをおぼえる

2024年03月01日声:被災者の声

残された者として<Kankitsu>

 能登半島地震でお亡くなりになられた方にお悔やみを、被害にあわれた方に心からお見舞いを申し上げます。
 2021年7月に土石流の被害にあった者とし、何ができるか考えました。自分の経験(失敗)が役に立つのではないのかと考え、その想いを綴ります。
 命の危機と隣り合わせの中、そして先が見えない中で、被害家屋の解体、撤去が計画される。現実を受け入れることができないまま撤去される家屋には、ほかの人には判らない各家の歴史が詰まっている。それらは一度失われてしまったら、おそらく二度と取り戻すことができないものである。
 行政には解体の際には、家人の許可を得ることと、助け出された大切な品々の保管場所確保を是非ともお願いしたい。伊豆山では知らない間に家屋が解体されてしまったり、流されずに残った物もいつの間にか捨てられてしまっていた人も多かった。たとえ小さくても、家の歴史、文化を残すべきではないか。それらが守られることにより地域に対する愛着を感じ、戻る人が多くなるのではないのだろうかと私は思う。

 

2024年01月30日声:被災者の声

根無し草<みかん>

 私の家は土石流で全壊した。災害警戒区域が解除されても戻る家がない。避難所で3カ月近く過ごしたが、「帰る家がない」ことがとても寂しかった。どこかへ出かければ避難所へ帰って来る。でもそこは、私の帰るべき家ではない。まるで根無し草のようだと自分のことを思った。
 「早く帰る家が欲しい」その思いだけで、懸命にみなし仮設住宅となるアパートを探した。引っ越した時に、「これで帰る家ができた」と思い嬉しかった。あれから2年4カ月が経ち、まだ同じ所に居る。
 やはり伊豆山に戻りたい。私たち家族の帰るべき場所は伊豆山なのだと強く思っている。遅々として進まない復興。変わらない景色。それでも私は、あの日途絶えてしまった、当たり前に訪れるはずだった穏やかな時間を、再び伊豆山で取り戻したいと思っている。

2024年01月25日声:被災者の声

土砂災害から2年<R.N.>

2021年7月3日に起きた熱海市伊豆山の土砂災害から2年以上経ちました。
しかし、未だに事件の真相はいっこうに見えてきません。多くの人が関わる複雑な事件であり、誰もが責任を逃れたい為に、情報を整理するだけに多くの時間を費やしています。このような事件の被害者となってみると、辛い思い出は忘れたいと思う気持もあるし、事件と向き合い原因と責任を追及しなければとも思います。
裁判はこれからです、悲惨な事件を二度と起こさない為にも、裁判の行方を注目してもらいたいです。

2024年01月22日声:被災者の声

進まぬ復興<みかん>

 また年が明けてしまった。ただ時間だけが無情に過ぎてゆく中で、伊豆山の景色はほとんど変わっていない。「1人でも多くの人が帰れるように」とか、「被災者に寄り添って」だとか、空っぽの言葉がただ繰り返されている。
 発災から2年6カ月、県や市が示す川や道路の計画には、未だ5割以上の地権者が同意していない。市長は「理解しろ」と繰り返す。住民の意向に合わせて計画を変更しようなんて気は毛頭ない。「計画が進まないのは住民が計画を理解しないからだ」と復興の遅れを被災者のせいにしている。
 一体誰のための復興なのか?人が住んで初めて町になるのではないのか?
 多くの人が住めなくなる計画をゴリ押しするのは間違っている。帰りたい人がみな帰れる計画を住民は望んでいる。町は住民のものである。説得力のない理由を並べ立てて「安全・安心」を強調しても、納得などできるはずもない。歩み寄りはお互いにするもの。「こっちへ来い」と言っているだけでは前に進まない。

 

2024年01月15日声:被災者の声

埋もれゆく被災地<Yurari>

歴史深い伊豆山権現の鎮守こごいの森に沿って、いつしか小川が形成され、逢初川とよばれた。
夏には沢蟹が遊び、秋には蛍が舞っていた小川に、漆黒の大津波が襲った。
何気ない日常、思い出の品々、大切な人の命までも奪って。
いったい何がおこっているのか?
呆然とたたずむだけだった。

水量の少ない小川に、なぜ?
真実を知りたい…
土石流から3年、復旧・復興への道のりもまだ遠い。
流出した土砂はおおかた取り除かれたが、被災者の心に積もった泥は、日増しにその高さを増すばかりだ。

2024年01月13日声:被災者の声